今年、長岡は
開府から400年。

[長岡開府400年]

長岡市は、初代長岡藩主牧野忠成公が入封してから今年で400年を迎えます。
士民協働のまちづくりと、多くの偉人を育んだ米百俵の精神は現代にも生き続け、子どもたちに語り継がれています。

>長岡開府400年公式ホームページ

【写真】米百俵の群像

米百俵の精神とは

「食えないから、米を売って学校を作った町」が越後長岡です。戊辰戦争に敗れ飢えた人々が溢れる中、長岡藩士小林虎三郎は学問と技術こそ、町の栄えとなるという考えから、三根山藩から贈られた米百俵を売り、「人を育てる」学校を作るのだと説いてまわったのです。

こころ継がれる、
長岡が育んだ偉人たち

  • 牧野忠成公

    長岡の基盤を作った、藩祖

    家来が主君のために命を投げ出すことが当たり前の時代に、家来のために命を捨てる覚悟があったという名君・忠成公は、武士も町人も農民も「常在戦場」の覚悟で誇りを持って生きよと教えています。

  • 河井継之助

    越後長岡・幕末の風雲児

    全国の諸藩が新・旧政府どちらかに就き争った幕末に、他力に頼らず、冒されず、己の力で生きていく「武装中立」を志向した継之助。願いは及ばず、奥羽越連合として戦うこととなりましたが、新政府軍を悩ませ続けました。

  • 小林虎三郎

    近代教育の父

    佐久間象山の下、吉田松陰と共に二頭の虎と言われるほどの才覚を得た人物です。教育は自らを正しくし、世のため人のためになるものだとし、長岡藩ひいては日本の教育に大きな影響を与えました。

  • 山本五十六

    故郷と人を愛した

    太平洋戦争時、連合艦隊司令長官として参戦した山本五十六ですが、「この身滅ぼすべし、この志奪うべからず」と開戦には最も反対していました。慈愛の心を持った人柄は今なお尊敬を集めています。

長岡駅はお城だった!?

駅前に立つと、城下町のイメージとはかけ離れたビル群が目の前に開けます。ビル群を貫く目ぬき通りの名は大手通り。そう、ここ長岡駅は、かつて本丸のあったお城の上に建っているのです。長岡市内には江戸時代から変わらない町名が数多く残っています。「殿町」「表町」「稽古町」「渡里町」「千手」「神田町」など、城下町の面影がいたるところに見られます。積み重ねた歴史や先人に出会ってみてはいかがでしょう。

【イラスト】長岡城主 【イラスト】現在の長岡駅前の施設・行事と長岡城との関係図
  • 長岡駅

    北越戊辰戦争に敗れた長岡藩士達が自ら開墾して桑畑に変わった長岡城は、やがて鉄道が敷かれるようになるとJR長岡駅となり長岡は商工業都市へと発展しました。

    【アイコン】城
  • アオーレ長岡

    大胆なデザインが目を引く「アオーレ長岡」は、屋根付き広場・アリーナ・市役所が一体となった全国初の複合型施設。その横に「二之丸跡の碑」と白狐を祀る「城内稲荷神社」があります。

    【アイコン】城
  • 大手通り

    明治の頃「停車場通り」と呼ばれていたメインストリートは、市役所・銀行・商店などが揃い、長岡城大手門に繋がっていたことから、「大手通り」と呼ばれるようになりました。

    【アイコン】城
  • 悠久山ゆうきゅうざん郷土史料館

    長岡駅からバスで15分、桜の名所悠久山公園に先人の業績と人となりを紹介している郷土史料館があります。江戸時代に造営された社殿を構える蒼柴神社もあり、歴史の一端に触れることができます。

    【アイコン】城
  • 長岡花火

    藩主牧野家の国替えが取りやめになり、長岡に残る事が決まった時の祝いに打ち上げたのが、始まりといわれています。今や100万人を超える観覧者が訪れる、日本三大花火のひとつです。

    【アイコン】城